高木正勝×原摩利彦 TALK EVENT #2

2019年6月9日BANG & OLUFSEN KYOTO POP-UP STOREにて開催された古都・京都にゆかりの深いふたりの音楽家、高木正勝さんと原摩利彦さんによる初の対談。前編につづき、中編をお届けします。

#1はこちら

高木:ピアノってよくファミコンみたいだなって思うんです。ドットの世界で。もっとたくさんの音があったけど「ド」みたいな。

高木:ピアノっていうのは自分でもすごく好きで弾いてても楽しいけど、不自由な楽器でもあって。いざ鳥が「ホーホケキョ」と鳴いた時に「わぁ!まちがいなくいい音だ」と思った時に、それをピアノで「たーたたた」と弾いた瞬間「なんだこりゃっ」ていう。笛の人が吹くと「けっこう近いな」とか「いいな」って思えたりするのにピアノはそれをできない楽器で。できるのかもしれないけど上手く出来ない。でもなんかすごく一番遠いところにありそうだけど…だから面白いのかな。よく思うんですけど、昔のゲームってドットがすごく粗かったじゃないですか?ファミコンとか色もすごく少なくて。1色2色の色で。でも花とか人とか赤ちゃんとかおじさんとかおばさんとかわかる。でも今はどんどん解像度が細くなっていって立体になっていって、そういう世界があるじゃないですか?現実に近いみたいな。でもすごくこう抽出して抽出して粗い粗いただ単に色が2色ぐらいあるだけなのに花ってわかるっていう。しかもそれだけで自分が好きな花とか手触りとか「温かそうな国の花なのか?」とかいろいろわかるぐらいまで伝わってきたりする。だけどどんどん精密に高解像度になってきちゃうと、逆に「自分には関係がないかな?」みたいに自分からは遠くなってしまって。余白がなくて、他人が入っていけないものになっていくように感じていて。ピアノってよくファミコンみたいだなって思うんです。ドットの世界で。もっとたくさんの音があったけど「ド」みたいな。選ぶとするなら「レ」じゃなくて「ド」みたいな。次の音は「ミ」か「ファ」か…どっちや?「ファ」みたいな。そういう粗いかなり粗い世界。

― そうか。そういうとらえ方ですね。

原:色にたとえるっていいですね。

高木:それが水墨画みたいな世界なんで。時々ピアノの音ばっかりやってるとなんかちょっと息が詰まってくるというか。「ぱっ」って現実にもどった時に自然の音がすごい。人がたくさんいる街でもですけど豊かでいろいろ「わぁ!いっぱいある!」みたいに聴こえる。

― 解像度のお話ですね。ピアノは西洋音楽を奏でるために最適化された(解像度が粗い)楽器という高木さんの発想が私の中では新鮮に響いたんですけど、そう感じながら高木さんがピアノを奏でる。解像度の高い自然の音と一緒にご自身も自然の中にピアノで入って行かれるのは「こういう発想なのか」と今ちょっと腑に落ちた気がします。出版された書籍『こといづ』の中でも「自然にも街の中にも豊かに聴こえてくる音がある」ことに触れてらっしゃいましたね。原さんもすごくうれしそうにフィールドレコーディングされているお姿を拝見したのですが。

原:僕は高木さんの『こといづ』を拝読して、すごい印象的な箇所がありまして。お庭かどこかで川の水の音が「ゴーッ」と鳴っていてちょっと違うなと思って石を置きなおして、気持ち良い音にしたっていう話が出てくるのですが、それがすごく印象的で。それともう1つ別のところでピアノ弾きながら鳥の声を聴きながら「こうじゃないな」と音を探していかれるところ。僕は「ゴーッ」っていう音がしていたらそこに石で手を加えたりせず「怖いなぁ」と思ったとしても手を加えずおそらくそのまま終わるんですけど、そこを自然な感じでそこに行かれてそっと石をならび変えられるっていうところが。

高木:そっとじゃないです。こう「ドンッ」と結構ガッチリと。

原:そんなに大きな石だったんですね。そういうスタンスがすごい新鮮というか、素敵やなと思いました。 欲求としてそうことをやってしまいたいっていう時に「コンポジション」みたいな考え方が出てきちゃったりすることもあると思うんですけど、そういう言葉を経由せず「ぱっ」とされるところがすごいと僕は感じたんですけど。

高木:ゼロから作るっていうのは基本的にしたことがなくて。苦手やからかもしれないですけど。真っ白な楽譜があって そこに自分の頭の中だけ使って作曲したことがないので、先ほど話したように自分で適当に最初汚してから、最後にメロディーを探していくようなことを全体的にやっているから。川があって「ここの音好きだな」とか「ここの音嫌いだな」ってなった時にどうしても「ここ嫌いやわ」ってところを触るのはわかるけど、何もないところに美しい川を作ってくれと言われたら逃げるかも。そういう欲求はない。

― 川を調律されたような感じじゃないですか?音を変えるという意味では。その前の川は人が使いやすいように三面コンクリートに施工したけれど怖い音が鳴る状態になってしまっていた。そうして一度人が音のことを考えずに調律した川を、高木さんがほかの生物とも一緒に暮らせる川に戻したいなというお気持ちで石を置かれて音を再調律しなおしたら、またいろんな生き物が川に帰ってきてくれてという箇所はすごく印象的で。

原:僕は手を出せないかもしれません。スルーしちゃうかもしれません。

高木:けっこう触りません?家の音とか僕は結構触りますけど。

原:そうですか?

高木:空気の音みたいな。

原:そこはあまり触らないですね。

高木:電気とか「ジー」と鳴ってたら?

原:最近は受け入れてしまってますね。前は気になってましたけど。

高木:そこが「許せない」っていうよりは、風さえ通れば「ちょっとこうやっただけで終わるんじゃないか」っていう結構そんなことばかり考えてるかもしれません。人の家行っても「あぁここの玄関音いいな」とかそういうことを思ったりする。

原:いい匂いの玄関はありますけどね。

― 「いい匂いの玄関」それはそれで興味深いです。

高木:意外なところが空気の音が良かったりしてますよ。頑張って作ったところがなくて、陰になっているところだったり。そこで楽器を鳴らすと良い音が鳴ったりするんです。

― 音響というか音場?が聴こえてくるんでしょうか?

高木:自分である程度思い切ってピアノを買ってみるとか、高いスピーカーを買ってみた時に、良いものだから置くだけで良い感じで鳴ると思ったら鳴らなかったりしますよね?音ってそういうところがあって「なんで鳴らないんだろう?」と思ったらその場所の「空気の音」通りの音がするものなんですよ。今この場の「空気の音」通りの音が鳴るんですね。慣れてきたらわかるんですけど。例えばこの会場じゃなくて僕の家に来ると土壁なので音が吸われてて「空気の音」が「しゅう」っと。

― デッドというか。

高木:同じ音を鳴らしてもその場の音で響いてしまうので。それを気にしているのかもしれない。

― コンクリートの家と木の家では音が違いますものね。

高木:原さんのフィールドレコーディングのお話は衝撃的でした。ヘッドフォンに音声さんが使う集音マイクとかでねらってと想像してたんですけど。

原:そういうのはあまりしないです。めっちゃラフなんです。

高木:持って帰ってから音は選ぶんですよね?

原:フィールドレコーディングする人は、ファイルいっぱい録ってきて、まずコンピューターに入れて、日付とか名前を付けたりして聴き直すんですけど。僕はあまりすぐには聴き直さないんです。本当に積ん読の本みたいですね。

高木;聴こうと思ったら結構大変ですよね。時間もかかるし。

原:そのまま寝かしておいて「聴こう」と思った時に聴きます。日付がファイル名につくので「これ何の時やったかな」と思ってカレンダーを見直して「ここか」と思って聴きながら「あぁそうそう。ここここ」みたいなことを思いつつ楽しんだりしますし。曲にする時に「そういえばあそこで録ったこんな音あったな」とか「イパネマの海の音あったな」とか探してという感じですね。映像的というか映画でシーンが切り替わる前に音から入ってきて、カットが変わって次のシーンに切り替わることって多いじゃないですか。そういう感じでエディットすることがあるので、音と映像を一緒に覚えている気がします。でもフィールドレコーディングは世界にある音を録ってきて自分の部屋に持ってくるスタンスなんですけど、法然院とかお寺さんでコンサートする時は、先にいっぱいいろんな虫の音とかがある中に自分が入っていて音を鳴らしたり。ライブといっても自分の曲を全部やるわけじゃなくて、断片を持っていてちょっと鳴らしたりっていうこともあるんですけど、そういう意味での双方向というのはあります。でもやっぱりものすごい音の中に行くのも、僕は一時的にしか行っていないので、高木さんみたいにそこに住まわれるというのはどんな感覚なんやろうと。

高木:不思議な感覚ですよ。前だったら自分の楽器のテクニックを磨いていたら自分の音が成長していくじゃないですか。でも今は外の音も自分の音だと思っているから、より鳥が来てくれるようにとか。餌は撒きませんよ。自然な要素で「この木が邪魔かな」とか「ここ草刈ったら鳥がおらんくなった」とか、外まで自分の楽器みたいな感覚なので手入れの仕方が変わってきて。以前なら草刈りで刈ってたところも、「この草刈っちゃうとここに住んでた虫の声が全部なくなるか」と不思議な気分です。むしろ前は一体「何を考えていたんやろう」って変な気分になります。

原:家を探された時は音のことも気にされたんですか?

高木:気にしてなかった。家を買って住んではじめて気づきました。自分で買った家だからなんとかしていく。川の音をなおしたのも、人の家なら絶対にやらないけど自分が毎日聴く音だから手を加えたというか。

高木:自分で弾いたピアノをCDに焼いて、そのCDの裏にマジックで落書きするんですよ。エラーで止まった音をそのまま録音して曲を作ったり。

― 原さんはこの会場でKYOTOGRAPHIEの『Wind Eye 1968』の展示をされていましたね。

原:祖母が世界旅行していた時の写真ですね。ちょっとヴィジュアルと音楽の話をしますと、僕が一番最初に高木さんの音楽を聴いたのは、浪人生の頃に京都の三条寺町の近くにneutronというお店があって、そこで盛りあがっていたエレクトロニカ(京都だとsoraさんとか)と呼ばれている音楽があるらしいと聞いて行ってみたり。スフェラ・ビルで高木さんの CDがたくさん並んでいたので、試聴して「わー!」と興奮していました。高木さんは映像も作られていて自分も「映像やりたい」という気持ちになって、いろいろ調べて当時MacでQuartz ComposerやISADORAというアプリケーションを試してみたんですけどすぐに「向いてへんわ」ってわかったんですね。それで「映像は止めて、音だけでやります」という気持ちに変わったんです。今回この会場で先月まで開催させてもらった『Wind Eye 1968』っていう展示は初めてビジュアルを扱ったんですけど、既にあった写真を使うっていう方法です。「音楽は作りますけど、映像は作らない」というスタンスです。当時映像作家で音楽家っていう高木さんの存在はめちゃくちゃかっこよかったです。聞いたことのない感じの音のエディットでしたし。特にneutronは地下に行ってレジの前を通って奥の部屋で試聴しないといけないので秘密の感じがあってドキドキした19歳でした。

高木:映像から始めたんですよ。だから今でも音楽家の人に知り合いがあまりいないんです。今日お声がけさせてもらったのも摩利彦さんやったら大丈夫かなという気持ちで。僕も「音楽の何か」っていう難しいことを言われると話が続かなかったり。あまりに話が続かなくなるとちょっと困りますよね。変な話ですけどあんまり考えてないんですよ。みなさんどうやって曲を作られてるのかわからないけれども、僕は映像も音楽も適当っていうたらおかしいけど、出来る事しかやってこなかったから。世の中の人はどういう風な作り方をしているのか知らない。知ってこなかった。はじめて自分で音楽作れたと思った時も、自分で弾いたピアノをCDに焼いて、そのCDの裏にマジックで落書きするんですよ。それでCDプレーヤーで再生するとエラーで止まるんですね。その止まり方も「タッタッタッタッタッ」ちょっと横を叩くと少し進んで「キコキコキコ」と別のところを再生してまたすぐ止まるんですよ。その音がすごく綺麗で。ピアノの音の本当に細かいところを「ピピピピ」と流してくれたり。叩くたびに違うところを鳴らすから「めっちゃ楽しい」と思ってそれをそのまま録音して曲を作ったりしたところからスタートしてるから。 邪道中の邪道じゃないですか。誰でも出来るというか。映像も音楽もそういう感じだったんですよ。始まりは。

原:「自分と関係のあるものじゃないと語れないな」という気持ちがあって。
高木:僕も一緒で、何も関係してないのに、何かを作ったり残すというのができない。

― 原さんは『Wind Eye 1968』で祖父祖母のルーツを辿るような展示をされた。高木さんは今90歳以上でないと「おばあさん」と呼んではいけない村に住んでらして(ご高齢のシヅさん、ハマちゃんとの交流が『こといづ』でも描かれています)そういう年代の方の語りや歌声をも作品にされている。それは一般的な(歌が上手な人を連れてきてヴォーカル歌ってもらうというような)世界からすれば、あまり想像ができないような次元の表現方法かと思うのですが、私はお2人のそんな作品に触れた時にこそ「胸が温かくなる」と感じています。

自分事ですが、私は趣味でギターを弾いていて、先日90歳の祖母孝行ができたらと童謡「ふるさと」を弾いて祖母に一緒に歌ってもらいました。祖母はもう耳が遠くて拍子が速くなったり遅くなったりするのですが、それにあわせて弾くのがすごく楽しくて。今聴き返してみても「すごく楽しい録音ができたな」と。その経験から音楽や映像というのは実はもっと開かれていて、展示や作品に遺す強度っていうのは、逆にそういう方向にも開かれているんじゃないかと。お2人はこうした感覚をどう作品にまで高められたのでしょうか?

原:高められてるかどうかはわからないですが、僕はおじいちゃんおばあちゃん子っていうのがまずありました。やはり展示として人前に出すので「構図としてかっこいい」っていうのを感じたので出すことにしたっていうのと。やっぱり何か自分が作ったり語ったりするときには「自分と関係のあるものじゃないと語れないな」という気持ちがあって。自分と全然違うジャンルのものを評価するっていうのは僕の場合はあまりできません。例えば万年筆を買うにしても「どのメーカーがいいか」って時に、機能よりも祖母が話してくれたことを判断の基準にしています。「私が若い頃ウォーターマンの万年筆で毎日日記をつけていたけど、そのペンを置いて(当時祖母は大阪に住んでたんですけど)神戸に遊びに行った夜に大阪空襲があって家と日記とそのペンを失ってしまったから、いつか大人になって買う時にはウォーターマンにしたら?」っていう言葉が胸にあって。自分と関係できるものを取ってきて作品を作るっていうのはあります。全部がそういうわけじゃないのですが。そういうのが好きっていうのがあって。ところで話は変わってしまいますが、高木さんの『こといづ』で「よう!勉強してるか」って仕事してるとおばあちゃんがやってくるじゃないですか?僕今だに「仕事する」ことを「勉強する」って口癖で言っちゃうんですよ。

高木:おばあちゃんが来たら「あぁ勉強しとんのか?」って言われるんですよ。

― パソコンとかあるから勉強してるように感じるんでしょうか。

高木:そうそう。仕事してたんだけど「まあいいわ!」って。

原:僕はいつも家で「よっしゃ!勉強するわ!」みたいな感じで、ポロッと「勉強」って言ってしまう癖があって「これ仕事になってないんかな?」ってちょっと落ち込んでたりしたんですけど、本を読んで「そういうこともあるよね」っていうのがすごくうれしかったんです。

高木:さっきも自分と関係を持ってるものっていう話がありましたけど、僕も一緒で、何も関係してないのに、何かを作ったり残すというのができない。できたとしてもあまり人に届ける意味がなかったりすると思っていて。例えば家に遊びに来てくれた人でまだ挨拶もままならないままパシャパシャ写真を撮って「いいとこ住んでますね」って。SNSが始まってからそういう感じの方もたまにいたりするんですけど、まだ関係してないやん。人とも場所とも関係ができていないものを残しても何も映らないと僕は思っていて。それが基本の基本にあるから、僕は逆にフィールドレコーディングっていう音をただ録るっていうのは、今まで何回も試してきてるけど逆にできなくて。その時「好き」と思って録りはするんですけど使い道がなくて溜まってるんです。それで今は、自分も音を鳴らしてみて関係を作ろうとしているんだと思います。窓を開けて入ってくる鳥の声とか自分の音も聴いてもらって循環ができている様子を一気に録る。前から思ってたけど関係性って難しい。なぜそれを入れたくなるんだろう。人に聞いても「そこにしか感動してないな」と自分でも正直思っていて。何を描いていてもその繋がりが見えた時に、例えば今回の展示されたものだったらおじいさんおばあさんとの思い出だったり血縁の繋がりだったりっていうのを、そのものに感動してるわけじゃないですけど、それを感じた時に自分の中に既にあった何かを思い出して感動しているなぁと思うから。

原:映画監督でもいいし作曲家でもそうですけど、もちろんその作品が好きなんですけど、その曲を通してとか、他の発言とかいろんなものを通してトータルで見えてくるその人像みたいなのが僕は結構好きで。そういうところも関係しているのかな?別に「ストーリーがないと嫌だ」ってわけじゃないんですけど、なぜかそこで「いいな」って思いますね。

高木:出来れば毎日作曲したいって半ば取り憑かれたように思っています。
原:僕は本を読んだり、映画を観たり、ずっと歩いて考えたり、作曲したくてたまらない気持ちになってから取り掛かります。

― さきほど「飽きる」という話が出ましたが、『こといづ』にも自己模倣の話が書かれていて。「もういいやん」ってところと「でも待てよ」と自己模倣の中から新しい自分らしさが生まれる。お2人の作品を聴いてどんどん変わってらっしゃるけど軸は変わってらっしゃらない気がしています。革新的なのに変わらない部分を保ち続ける秘訣はありますか?ひとところに留まってはいないけれど、どっしりと根が張られていると感じています。

高木:摩利彦さん、例えば曲を1曲作るとします。良い曲が出来た時はすっごく新鮮で新しいって思うじゃないですか。

原:そうですね。世界に入ってますね。

高木:でもそれがずっと続くわけではないですよね?飽きるというか慣れるというか。

原:それはありますね。「そこそこかなぁ」っていう時もあるじゃないですか。本当は駄目なんですけど。これは「そこそこの出来やな」という感じでそのまま出しても行けるけど、もうちょっと練り直すかどうかっていう選択を迫られる時ありませんか。でもそれは今はここまでやから妥協で出すっていうんじゃなくて、ひとまずこれで置いておく。

高木:僕もよく寝かします。妻にも聴いてもらって「どう思う?」と聞いて「ふにゃっとしてる」って。そういう時は自分でも、ふにゃふにゃしててだめだぁって思ったり。

― 締め切り以外での作品になる到達点のような基準はあるんでしょうか?

高木:僕の場合は頑張ってそこに辿り着けるものでもない感じがあって、経理の仕事みたいにやればやるほどゴールに向かうようなものではなくって。「今日出来ひんけど明日出来るかもしれない」っていうそういうものの連続なので、逆に言うと「今日ふわっとしたものしかできひん」ことに対してそこまで凹みはしないけど。僕の場合はお通じが来ないような、来てるのに出せないみたいな感じが続くのが気持ち悪くて、出来れば毎日作曲したいって半ば取り憑かれたように思っています。毎日作曲してますか?摩利彦さんは?

原:僕はあまり毎日はしてないですね。実作業する時間が短いんですよ。本を読んだり、映画を観たり、ずっと歩いて考えたり、作曲したくてたまらない気持ちになってから取り掛かります。今夏までにアルバムを作らなくちゃいけないんですけど、今はまだためてます。

― 私もグラフィックでデザインをしているのですが、その点はすごく共感できます。原さんタイプかもしれません。逃げてるわけではなくずっと考えてるじゃないですか。やったら終わるのに。でもずっと考えてるときに「ここ」っていう「この日はすごくできる!」みたいなこと、創作中の自分のコンディションなのか、タイミングというのもありますよね?

原:ありますね。毎日同じことをするのに憧れるんですけどそれができなくて。朝6時に起きて走って作曲して散歩してみたいなことが全然できません。3日か4日するともう飽きちゃって「次!」(の習慣に移行)みたいな。

高木:作曲の勉強もされますか?

原:それはしますね。

― 「仕事も勉強」とおっしゃっていますが「勉強」がベースにありますか?

原:京都大学での専攻が生涯教育学だったので、生涯勉強する存在でいくつになっても学校に戻ってもいいし、学校に行かなくても日々の中でいろんな学びがあるなという考え方が染みこんでいるからかもしれません。死ぬまで学び続ける存在といいますか。そういう考えがベースにあるからだとは思うんですけど、それで「勉強」という言い方になっちゃうのかもしれません。ちゃんと「仕事」はしますよ。

― 「仕事」のためにも「勉強」を欠かさない。

原:みなさんどんな職種でもそうだと思いますけど。

高木:僕は、本を買っても最初の数ページで終わっちゃうかも。

原:本買って読んだりとかそういうことだけじゃなくて、どっかの国やそこら辺ではって気づくこともありますよね。気づきとか言いますけど。

― インプットというと手垢がついた響きになるかもしれないですけど。高木さんもソロモン諸島に行かれて気づかれるわけじゃないですか。創作にとって気づくことのほうがよほど大事というか、生きることにとって大事なことを見つけてらっしゃるような。

高木:新しいことを探してるっていうよりは、ずっと子供の頃から「ほんとはこういうのを聴きたいのにな」ていう気持ちがあって、それが「ふわっ」としてるからどうやったらタッチできるんやろうっていうのを探しているというか。いつも僕の場合は曲が出来る時はまぐれでできるから。「わーっ」と弾いてる時に「今作曲してる」って意識がはっきりしていて自分でもわかる時があるんですけど、その5分間は「今来た!」っていうのはわかりながら弾いてる。今のうちに「来てるからあらゆることを弾いとこう」と弾いたらそれが曲になるから。なんかもうちょっとうまくできたらなあといつも思います。摩利彦さんはちゃんとされてそうだから、そういうお話も聞けたらなと思って。

― 高木さんはその作曲タイムが訪れるまで、毎日作曲のことを考えて作曲し続けたいタイプかもしれませんね。

高木:ピアノの前を通る度に「触るか触るまいか」って感じで時が過ぎていったり。

― マージナリアをはじめられてからは、外の要因と言うか季節がやってきてくれますよね。

高木:でも例えば一週間前にウグイスと「ホーホケキョ」をあわせて「いいのが出来た」ってなったらそこから先一週間ぐらいやっぱりウグイスぐらいしか鳴いてなかったりして、また弾いたら「また出来た!」って思っても「昨日と同じ」ってなったり、「あれ?去年の春と一緒…」となったりそういうのがあって。

― 『Marginalia#48.02…』みたいなのがいっぱいあるわけですね。

高木:それはいっぱいありますよ。一応録音はするけど「また繰り返してるな」みたいな。その僅かな差が面白いこともあればそうじゃないときもあったり。108回いいやつを残したいと決めたので、多いようであと40回ぐらい。なので終わりがわかっていると無駄な球が打てないというか。いい緊張感の中で。

― 原さんは逆にインプットをしてためてためてためて…

原:ここぞという時に「一発バン」と。今はずっと溝口健二とか古い日本映画を観たりしていて。自分の次の作品と関係するのかどうかはまだわからないけど、作るのは自分なので、興味のあるものに触れていけばいけるはずって信じてやってます。

― きっと入ってくるものによって作品も変わっていっていると思うので、今入ってきている映画がどう作品に影響するのかわからないですけど楽しみですね。

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高木正勝

高木正勝音楽家 | 映像作家

1979年生まれ 京都出身

長く親しんでいるピアノを用いた音楽、世界を旅しながら撮影した「動く絵画」のような映像、両方を手掛ける作家。『おおかみこどもの雨と雪』『夢と狂気の王国』『バケモノの子』『未来のミライ』の映画音楽をはじめ、CM音楽、執筆など幅広く活動している。最新作は、自然を招き入れたピアノ曲集『マージナリア』、6年間のエッセイをまとめた書籍『こといづ』。
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原摩利彦

原摩利彦音楽家 | 作曲家 | サウンドスケープ・アーティスト
京都大学教育学部卒業。同大学大学院教育学研究科修士課程中退。
音の質感/静謐を軸に、ポスト・クラシカルから音響的なサウンド・スケープまで、さまざまな媒体形式で制作活動を行なっている。アルバム《Landscape in Portrait》をリリース。ダミアン・ジャレ+名和晃平《VESSEL》、野田秀樹《贋作 桜の森の満開の下》などの舞台音楽を手がける。アーティスト・コレクティブ「ダムタイプ」に参加。
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聞き手:小夏浩一 写真:原祥子 編集:小夏麻記子